クラブミュージックの歴史

クラブミュージックの前身とも言えるディスコ、その前夜から。

昔、ダンスホールではバンドなど生演奏をメインに踊っていた。
しかし、第二次世界大戦が始まり、生バンドでも演奏が難しくなってきた。
その代わりにレコードがかけられるようになっていった。

戦後もダンスホールでよくレコードをかけるようになったのが、フランス・パリの『ラ・ディスコテーク』である。
(この『ディスコテーク』というのはレコード置き場という意味で、これがディスコの語源)

しかし、このレコードをかけるというスタイルは一気に広まったわけではなく、1950年代のディスコはバンド演奏が基本的なスタイルだった。

イメージ↑back to the futureの1シーン、1955に戻ったマーティが、1958リリースのjohnny B goodeを演奏してしまうというタイムパラドックス。van halenのライトハンドなど、時代を無視した奏法に観客が困惑そこで一言「君等には早いが子供の世代にはわかる」


Chuck Berry-Johnny B goode (1958)


Elvis Presley -Jailhouse Rock (1957)

元々ロックミュージックも、踊るのがメインのミュージックであった。

レコードをかける「ディスコ」形式になるのは60年代になってから。
変化の舞台はフランスからアメリカへ

ディスコが本格的な発展を遂げたのは、ニューヨークのゲイ・シーンからであり、ゲイの黒人・ヒスパニック系などのマイノリティが集まり、掛けられる音楽もロックからファンク、ソウル、リズム&ブルース(R&B)へと変わっていった。

生バンドの代わりにレコードを掛ける「ディスコ」(もしくはクラブという形式)が本格的な発展を遂げたのは1960年代以降のアメリカのニューヨークゲイ・シーンである。客層はゲイの黒人・ヒスパニック系などのマイノリティが主流であり、掛けられる音楽はファンクソウルミュージックや特にフィラデルフィア・ソウルと呼ばれる滑らかなリズム・アンド・ブルースや、それらをベースにした音楽であった。こうしたディスコはゲイ男性のための発展場としての役割とアンダーグランドな黒人音楽の発展の場としての二つの面を持っていた。こうしたディスコとして有名なものにパラダイス・ガレージセイント、フラミンゴ、ギャラリーな どが挙げられる。いずれもゲイの男性を対象としたメンバーズ・オンリー(女性や非メンバーはメンバーのゲストとして入場する事ができた)のディスコであ り、ニューヨークでも特に進んだファッショナブルで流行に敏感なゲイの男性たちが集まっていて、流行の発信地でもあった。この中でもっとも有名であり、後 世に影響を与えたのパラダイス・ガレージとそのメインDJラリー・レヴァンである。現在のクラブ音楽の基本的パターンである、DJがヒット曲ではなく自らの個性を発揮した選曲で独特の世界を作り上げて客を躍らせるというスタイル、二枚のレコードをミックスして継ぎ目なくレコードを演奏するスタイル、既にある曲をリミックスしてダンス向きにする手法、家で聞くためではなくクラブで掛けるためだけに製造される12インチのシングル盤といった形式などはこの時期に前記のラリー・レヴァンやエンジニアのウォルター・ギボンズ達によって確立された。
Wikipedia

また、1962年の独立をきっかけにジャマイカでは「スカ」が音楽シーンを席巻し始めた。
R&Bやジャズを独自に解釈して生まれた音楽だと言われている。


The Skatalites - Guns of Navarone


The Skatalites – freedom sound

ジャマイカではディスコではなく、「サウンド・システム」と呼ばれる音響設備がメインとなる 当初は酒場などでBGMを流すだけだったが、次第に場所は野外へと移り、音楽がメインとなっていった そして単にレコードを流すだけではなく、 レコードの歌に合わせて歌う者や流している歌の解説や、客の煽りをする者が現れるようになったこれらのサウンド・システムのスタッフを解説すると

  • 曲を掛ける「セレクター」
  • 曲に合わせてしゃべったり歌ったりする「DJ」
  • セレクターのかける曲を説明するなどして場を盛り上げる「MC」
  • スピーカー・セットの状態を良好に保つ「エンジニア」

で構成される。

1960年代半ばから、モータウンなどソウルミュージックの影響を受け、テンポを落としていくこととなり、その結果

「ロック・ステディ」

というジャンルが誕生することになる。

当時はジャマイカに限らず、楽器はアナログが中心だった 音がデジタル変化していくにつれ、その音楽性も変化していったベース音はより複雑になって曲の印象を強く支配するようになり、 ピアノは電子オルガンに取って替わったホーンを入れない傾向が強まり、リズムギターはよりパーカッシブに、 ドラムはより正確で複雑なスタイルに変化した。

当然、これもジャマイカに限ったことではないその辺りの変化を詳しく探るため、もう一度舞台を欧米に移す

1968年に楽器として「シンセサイザー」を使ったアルバムが、アメリカのコロムビアレコードから発売された。
Walter Carlosの「Switched-On Bach」というアルバムだ 。


Walter Carlos – Switched-On Bach (Wendy Carlos

これを機に、1970年代はさまざまなミュージシャンがシンセサイザーを取り入れた音楽を発表して行くことになるその中でも1970年に結成された「クラフトワーク」はクラブミュージックを始め、さまざまなアーティストに影響を与えたと言える。


kraftwerk- autobahn 1974


Hot Butter – Popcorn

ここで注意しておきたいのがクラフトワーク = テクノの始まり」ではないということ。
「テクノ」というジャンルが誕生するのはもう少し先になる

そしてシンセサイザーは当然ディスコにも大きな影響を及ぼした

ゲイが社会的に認知されると社会の多方面に堂々と進出すると同時に、このディスコ音楽も表舞台へと登場し、ゲイ以外の一般のリスナーにも聞かれるようになる。1970年代にはアメリカのテレビ番組であるSoul Trainの人気が沸騰した影響で、ほぼ同時多発的にディスコ・ブームが世界的に巻き起こり、大都市のみならず全米でディスコ・クラブが登場し、一般人が押し寄せるようになり、ヒットチャートの上位を独占するようになる。

Saturday Night Fever

しかし粗製濫造された質の低いレコードや流行の一過、また中核を担ったゲイ音楽シーンがエイズにより壊滅的な被害を受けたことにより、ディスコ・クラブという形態は次第に姿を消す。ディスコブームの終焉により再びアンダーグランドな物へと回帰し、現在のクラブ音楽へと変貌していく。

「ディスコ音楽」は流行の舞台をヨーロッパに移し、後にユーロビートなどに代表されるイタロディスコへと変化していくことになる。


Dharma – Plastic Doll


Green Olives – Jive Into The Night

では、その後アメリカのアンダーグラウンドでは何が起こっていたのか?
それは大きく分けて3つのジャンルが出てくるようになった

その前に、70年代のジャマイカの音楽シーンを

70年代のジャマイカでは、スカとロック・ステディから発展した「レゲエ」が ポピュラー音楽として登場した 。

この頃のレゲエは「ルーツロックレゲエ」と言われ、シンガーソングライターである「ボブ・マーリー」によって世界的に有名になった。


Bob Marley – Three Little Birds


Bob Marley- I Shot the Sheriff

レゲエは「ラスタファリズム」と呼ばれる「アフリカ回帰主義」の影響を強く受けている。
そのため、政府当局や、西洋社会からの圧迫への抵抗を示す、反体制、反権威的な歌詞が多くなった。

また、この頃に曲乗るズムをより強調する様にミキシングし、エコーやリバーブなどを過剰にかけた「ダブ」という手法も生まれた。

また、レゲエの認知度が上がったことで、主にイギリスに移住したジャマイカ系二世を中心に、イギリス独自の解釈のレゲエともいうべき「ラヴァーズロック」と呼ばれるジャンルが誕生した。


UB40 – Red Red Wine

この後、レゲエとラヴァーズロックは次第に欧米のクラブミュージックに従い サウンド面がデジタル化していくことになる。
その辺りの解説をするために、もういちど舞台を欧米に移す。

では、アメリカのアンダーグラウンドを見ていこう。

70年代の終わり、ニューヨークでDJをしていたフランキー・ナックルズという人物がシカゴにあった黒人やゲイが集まるクラブ「ウェアハウス」にDJとして招かれた。
彼のDJは独特の手法を用いており、非常に人気があった。

(フランキー・ナックルズは以前出てきた、ラリー・レヴァンの親友)

そこで彼がプレイしている音楽を地元のレコード店が「ハウス・ミュージック(ウェアハウス・ミュージック)」 と称して販売したのがハウスの始まりと言われている 。

その後、後任のロン・ハーディーというDJがドラムマシンを多用したDJプレイを披露していたため、シカゴの地元の黒人ミュージシャンたちが安価なドラムマシンであるローランドTR-909を使用した曲を作曲し、更にそれがクラブでプレイされていくことになった。


Mr Fingers – Can You Feel It


Armando - Land of confusion

その後、シカゴの音楽シーンに注目したデトロイトでも似たような音楽が作られ始めた。

いわゆる「デトロイト・テクノ」である。

享楽的なシカゴハウスに対し、デトロイトの音楽はシリアスさを前面に出していたそ。
の結果、より実験的な音作りになっていった。


Rhythim Is Rhythim – Strings of Life


Cybotron- Clear

やがて、このデトロイトの新しい音楽に注目したイギリスのレーベルから 編集盤アルバムが発売され、その時にこの新しい音楽を表す言葉として「テクノ」が選ばれた。

ここで初めて「テクノ」という言葉が誕生した。

更にこのころ、ヨーロッパでは「レイブ」と呼ばれる野外パーティが流行っており、「テクノ」や「ハウス」はレイバーに受け入れられることになった。

レイブではエクスタシー等のドラッグが大流行していて、 更にはそれがアシッド・ハウス、アシッドテクノというふうにテクノ等にも影響を与えるようになった。

この「アシッド」は「ローランド・TB-303」のツマミをランダムに動かすことによって偶然生み出されたサウンドが、あたかもアシッド(LSD)の幻覚作用を思わせる、幻想的なサウンドだったからこの名前がついたといわれている。


DJ Phuture – Acid Trax

この後、ヨーロッパを中心にテクノとハウスはいろいろと派生していく

3つの内の2つはハウスとテクノ、では最後の1つは何か?

「HIPHOP」
HIPHOPの創始には諸説が有るが、1970年代初期に生まれ
  • クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)
  • グランドマスター・フラッシュ(スクラッチ技術の流布者)
  • アフリカ・バンバータ

この3人のDJ達によって広まったと一般的に言われている。

1974年11月12日、アフリカ・バンバータが「DJ、ブレイクダンス、グラフィティ、ラップ」これらの文化を全てひっくるめて「HIPHOP」と名づけたんだ この日がHIPHOPの誕生日と言われている。

初期のいわゆる「オールドスクール」と言われているHIPHOPは、ブレイクビート(ドラムマシンのループ)に他ジャンルの音楽をサンプリングとラップ、またはブレイクビートとラップのみで構成されてるのが多かった。

ラップの内容もシンプルなのが多かったが、「The Message」というメッセージ性の強い曲が現れ、後のHIPHOPに大きな影響を与えることになった 。


Grandmaster Flash & The Furious Five – The Message

初期のHIPHOPはディスコ音楽を好むか嫌うかで分かれていた。
いわば「中産階級」である「ディスコ・ラッパー」とゲットー(移民系アメリカ人)である「B-Boy」で対立していた


Sugarhill Gang – Raper’s delight


Kurtis Blow – Basketball

そしてアンダーグラウンドだったHIPHOPは、次第にメインストリームに上がっていった。

その決め手ともいえるのが
1986年「Run-D.M.C.」と呼ばれるグループがPVでエアロスミスと競演することにより一般層にも広く知られることとなった。

その後、知名度を獲得したHIPHOPは「ゴールデンエイジ」と呼ばれる成長期へと移っていくことになる。

ここで、再び舞台をジャマイカへ

ジャマイカでも、レゲエのサウンドは徐々に打ち込みへと変化していくことになる。
1985年に大ヒットしたUnder Me Sleng Tengという曲では曲のリディム(リズム)にカシオトーンを用いた、非常にシンプル且つデジタルな手法で表現している。

この曲を転機に、他の曲もデジタル化が進んでいくことになった。

Wayne Smith – Under Me Sleng Teng

そして、80年代の終わりから90年代の始めにかけてわざとメロディーからキーを外して歌う「アウト・オブ・キー唱法」やシンガーにもかかわらずDJのような節回しを取り入れる「シングジェイ」唱法といった個性的な曲が増え始めた。
(レゲエで「DJ」は他ジャンルの「MC」を指す)


Tenor-Saw – Golden Hen (アウト・オブ・キー唱法)


cocoa tea – 18 and over (シングジェイ唱法)

また、打ち込みへと変化したレゲエは思わぬ副産物を生むこととなった。

「テクノに対するジャマイカからの返答」

「ジャングル」が生まれた。

「ジャングル」とはドラムのフレーズをサンプラーに取り込み分解、並べ替えたりしたもの(ブレイクビーツ)を高速ピッチで再生する音楽 この時にジャズ、ソウル、HIPHOP等の要素ともクロスオーバーし、後にイギリスで流行する「ドラムンベース」の始祖となった。

ジャングル

UK Apache & Shy Fx – Original Nuttah


DEEP BLUE – HELICOPTER

ドラムンベース

Roni Size – Dirty Beats


4 hero – universal love

この、ジャングル、ドラムンベースの高速化は、ヨーロッパのテクノの細分化が原因

ヨーロッパで起こったレイヴのムーブメントを「セカンド・サマー・オブ・ラブ」という。
(1960年代に起こったヒッピームーブメント「サマー・オブ・ラブ」の再来という意味で「セカンド」)

そこで、頻繁に掛けられていた「アシッドハウス」はより激しく、より多彩な音を求められるようになった。

そこから生まれたのが「トランス」や「ハードコアテクノ」である。

「アシッドトランス」はアシッドハウスからの発展で、TB303のうねりが特徴


Hardfloor – acperience

インドのゴア地方で生まれた「ゴアトランス」はインドの音階や、イスラム音階などを用いた民族音楽に近いメロディーが特徴

Man With No Name – Way Out West

そして、オランダで大流行したために、その名前が付けられた「ダッチトランス」

System F – Out Of The Blue

また、このトランスを更に高速化した「トランスコア」や、主に北欧で盛んなNRGというジャンルも存在する

Alek Szahala – Lumi

では次にハードコアテクノの解説に
諸説はあるが、世界で最初のハードコアテクノはメスカリナム・ユナイテッドの「We Have Arrived」だと言われている 。


Mescalinum United – We Have Arrived

この曲がきっかけで、キックはより重くなり、それに付随する音もけたたましくなった。

L.A. Style – James Brown Is Dead


T-99 – Anasthasia

イギリスでの主要なハードコアテクノは後に「ハッピーハードコア」と呼ばれる
メロディアスなハードコアが大きな割合を占めるようになる

Scott Brown – Elysium Plus


DJ Hixxy – I See The Light

しかし、全く別の動きを見せる国もあった。
その最たる例がオランダである。

当初、オランダのアムステルダムのDJはイギリスの人気曲を中心に掛けていたが、それにロッテルダムのDJたちが猛烈に反発した。

そこで、ロッテルダムのDJはアムステルダムのDJを馬鹿にする曲を作り始めた。

これが、「ロッテルダムテクノ」だ。


King Dale – Fuck Face


Neophyte vs Stunned Guys – Army of hardcore

ロッテルダムテクノはその後、さらに高速化して「ガバ」と呼ばれるジャンルになった

「ガバ」はオランダ語で「仲間」を意味する
あるクラブに入ろうとした人物が「お前は仲間(gabber)じゃないから入れない」

とクラブの警備員に言われたのが由来らしい。


Hellfish & Producer – Compression Warrior


Radium – Sordid Backstage

その後、ガバはやがて低速化していきニュースタイルガバというスタイルに変化した


The Stunned Guys – Raise Cain (MOH)


Art of Fighters & Tommyknocker – Follow Me

また、一般的なガバは低速になったが、ガバをさらに高速化した「スピードコア」というジャンルもある 。


D.O.A. – N.Y.C. Speedcore


DJ Plague – Terrorists Never Miss

オランダ以外でも、例えばスペインではマキナというスペイン独特のジャンルが登場した。


Two Good – Happy Moment


Bolo & Uri – Action

ハードコア以外のテクノでも細分化は進み、より速い音楽、より遅い音楽、よりメロディアスになる音楽と言うように細分化されていった。

ハードミニマル

Adam Beyer – Drumcode 09

ビッグビート

The Chemical Brothers – Elektrobank


The Prodigy – Smack My Bitch Up

また、近年ではバンド方面からのクラブミュージック的なアプローチによる「ニューレイブ」なんて言葉も出てきたりしている。


Klaxons – Golden Skans


Hadouken! – That Boy That Girl

90年代に急成長したHIPHOPシーンは、様々なジャンルに影響を与えた

Run-D.M.C.の「Walk This Way」をきっかけに、HIPHOPアーティストはアメリカで セールスをぐんぐんと伸ばしていくことになる。

特に1986年に登場したアイス・Tの6 N The Morningという曲は、例を見ないほどのな成功を収めたんだ いわゆる「ギャングスタ・ラップ」が流行したのもこの曲がきっかけだと言われている。


Ice-T- 6 ‘N The Mornin’

また、この頃のHIPHOPの大きな特徴として、政治的主張、貧民街の暮らし、アフリカ回帰といった強いメッセージ性を持つ曲が増えたことが挙げられる。


Public Enemy – Don’t Believe The Hype


N.W.A. – Straight Outta Compton

このようなHIPHOPに対し、音楽市場は敏感に反応した これらのシリアスなHIPHOPは商業的成功を収め、多くの作品が表に出ることになった。

その結果、様々な手法のHIPHOPがオーバーグラウンドへと登場することになった。

女性アーティストが台頭してきたのもこの時期


Roxanne Shante – Have a Nice Day


Queen Latifah – Fly Girl

この頃、アメリカのHIPHOPは東西でその姿を変えるようになる、西海岸側(ウエストコースト)と東海岸側(イーストコースト)はそれぞれ別々の成長をしていく。

西海岸側ではギャングスタ・ラップが勢いを増していくことになった

特にN.W.A.からソロデビューしたドクター・ドレーの、1992年のアルバム 「The Chronic」は「Gファンク」と呼ばれるジャンルを作り出し、イーストコースとに比べて規模の小さかったウエストコートのHIPHOPは、驚異的な速さで精力、いや勢力を拡大していくことになったんだ。

Gファンクとは、ジョージクリントンが1970代に率いた「パーラメント」と「ファンカデリック」、及びその構成メンバーによるファンク音楽である「Pファンク」というジャンルの曲を サンプリングしたHIPHOPの事なんだちなみにGファンクのGは「ギャングスタ」を表しているゆったりとしたテンポとシンプルな音にあわせて非常に踊りやすいHIPHOPと言える

Pファンク

Slave – Watching You

Gファンク

Snoop Doggy Dogg – Gin and juice

ゆったりとした西海岸のサウンドに対し、東海岸側ではサウンド、歌詞と共にシリアスで激しくなっていったんだ


Nas – The World Is Yours

この後、ウエストコースト「デスロウ」 イーストコースト「バッドボーイズ」それぞれに所属していた2PAC、ノトーリアス・B.I.Gが対立しお互いが銃撃され死亡。

「デスロウ」から多くのアーティストが去り、ウエストコーストはHIPHOPのメインストリームから落ちていくことになる。


TuPac (2Pac) – Hit Em Up

ギャングスタラップは勢いを落とし、その代わりに南部を中心としたライフスタイル思考のHIPHOPが人気を集めるようになった。

その後、HIPHOPはロックを始めとしたいろんなジャンルの音楽とクロスオーバーするようになり、現在に至る。

その他、参考サイト
http://techno.org/electronic-music-guide/

http://plaisir.genxx.com/?p=191

http://mudainodqnment.blog35.fc2.com/blog-entry-840.html

出典
http://yaruomatome.blog10.fc2.com/blog-entry-258.html

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